みくに隠居処について

ABOUT

江戸時代に存在した
娯楽処を
200年ぶりに復活。

かつて北前船の寄港地として栄えたこの三国の地で、
北前船の船員や地元の漁師、地域の人々が、集い・語らい・楽しんだとされる「みくに隠居処」。
この「みくに隠居処」は、当店の創業より数えて5代目、伊藤五右衛門が、
庄屋(村の首長)として活躍した後、屋敷を人々の為に開放したことが始まりとされています。

ABOUT

江戸時代に存在した
娯楽処を
200年ぶりに復活。

かつて北前船の寄港地として栄えたこの三国の地で、北前船の船員や地元の漁師、地域の人々が、集い・語らい・楽しんだとされる「みくに隠居処」。この「みくに隠居処」は、当店の創業より数えて5代目、伊藤五右衛門が、庄屋(村の首長)として活躍した後、屋敷を人々の為に開放したことが始まりとされています。

名前の由来

隠居所から隠居処へ。

当店は、福井藩16代藩主松平春嶽の教育係で参謀も務めた中根雪江が、晩年、宿浦に造った隠宅(隠居所)と深い関わりがあります。雪江の隠居所は、安政の大獄により春嶽と一緒に失脚した雪江が隠居する為に造られました。海と釣りが好きだった雪江は身の回りの物にも魚を彫金したものを使うなど相当の魚好きだったことが伺えます。そんな雪江は、隠居所で当時の政治の様子を記録する執筆活動の場として活用するつもりでした。しかし、明治新政府発足前の段階から坂本龍馬からの強い勧めもあり、18 6 7年1 2月9日の王政復古で成立した明治新政府の徴士参与、内国事務局判事として上京(出仕)することになりました。

続きを読む

こうして、雪江は隠居所を去らなければならくなってしまいました。そこで、この隠居所の管理を、友人であり庄屋であった伊藤五右エ門に託し、五右エ門は雪江の活躍を大いに喜びそれを快諾。それから程なく、隠居所と土地は、鉄道の普及のタイミングで手放すことになりましたが、管理をしていた五右エ門屋敷自体が地域の方から「隠居所」と呼ばれるようになり、今の店舗の屋号となりました。
その後、2017年に五右エ門の子孫が「隠居所」の屋号を踏襲したオーベルジュ型の宿泊施設を建設。隠居所の最後の「所」の文字を、単なる場所を差す意味合い持つ文字から、空間的・時間的意味合いを持つ「処」の当て字にし、隠居処と書いて「いんきょじょ」と命名。
なお、2022年に一旦は当家の手に渡り、そして離れた中根雪江隠居所跡地が、様々な奇跡的なご縁と地域住民の方のご尽力により活用できる状態となって再び当家に戻ってくることとなりました。今後は、当店はもちろん、中根雪江隠居所跡地も含めて、町の中に残る幕末や北前船の歴史や文化を次世代に継承していけるよう、応援していただける皆様と共に、力を合わせて紡いでいいきたいと思っております。

三津七湊の三国湊

北前船の寄港地
三国湊

かつて一攫千金を夢見て、全国に様々な食糧や物財を運び日本海中を走り廻った大型商船(通称:北前船)。その日本海側航路の中でも最大規模の港として栄えたのが当店からすぐそばに位置する三国湊です。

続きを読む

室町時代に作成された日本最古の海洋ルール集「廻船式目」の中でも日本の三津七湊の一つに名前が挙がるなど、大昔から海運業で栄えてきた日本屈指の湊町です。
その恵まれた地形から形成された町には、地域特有の歴史や文化が今も残り、またそれらを次世代に継承していく為に、様々な方が活動を行っています。
当店も、北前船の歴史や地域の素晴らしい自然、またその恵みである食材などを店舗運営の中に組み込み、まち大切な「おたから」を、活かし守る活動の一翼を担って参ります。

食べて知る新たな取組み

越前北前料理を通じて
北前船の歴史や文化を
発信・継承していく。

当店では、北前船の歴史や文化を、食を通じて知ることの出来る「越前北前料理プロジェクト( 文化庁認定)」に参画しております。越前北前料理は伝統料理ではなく、歴史・文化を食を通じて継承していく新たな食のカテゴリーです。

続きを読む

越前北前料理に認定されるには複数の定義を満たす必要がります。提供店舗は、北前船の歴史や文化を継承していく為に、北前船の歴史・文化を調べることが求められ、さらに、それらを料理を通じて表現し提供することが必要になります。
そんな越前北前料理(文化庁認定)への取り組みに参画することを通じて、北前船の歴史や文化を食を通じて発信・継承していく一翼を担えることを目指して、日々、精進していきたいと思っております。

隠居所になるまでの歴史

「隠れ」「居る」「所」。

かつての人も、現代の人と同じよう、自分の心と体を癒す隠れ家を望み、探したのであろう。当店が「隠居所」と呼ばれるようになったのは、天明元年(1781年)より数えて5代目伊藤五右エ門の代のことです。

続きを読む

隠居所には、全国を往来する北前船の船員や村人が集い、やがて「憩いの場」となりました。そして、その居心地の良さから徐々に自宅に帰らず、寝泊まりをする者が増え、明治・大正には簡易宿舎“清風亭”、昭和・平成にかけては料理旅館として“伊藤旅館”を営む。
その後、建物の老朽化に伴い、平成17年を最後に長らく休業中でしたが、語り継がれる当時の歴史や文化、エピソードをヒントにまちの新たな賑わい創出の仕掛け方を提唱するべく、11代目が再建を決意、現在に至ります。

「越前三国湊風景之図」慶応元年(1865年)

福井藩主松平家とのエピソード

村人がお殿様に振る舞った
おもてなし料理。
舟盛り誕生の秘話。

舟盛り誕生の歴史は、安政の大獄により第16代福井藩主松平春嶽が隠居を命ぜられたところから物語りが始まります。隠居した春嶽がまず行ったことは新たな藩主を誰にするかでした。何故ならば、春嶽には跡取りとなる嫡男がおらず、後継者の早期決定は藩政への影響も鑑み早急な事案として位置づけられていたのです。

続きを読む

結果的に、血縁関係があった糸魚川藩の茂昭を養子に迎え、1860年(万延元年)4月20日が茂昭公の初のお国入りの日となりました。その責任者として当時対応したのが庄屋であった伊藤五右エ門でした。藩主入覧は、皇室の方々の視察以上に地元民に緊張があったされ、料理一つにしても奉行所とのやり取りの中で、質素を指示されても、その本音と建て前を分別して庄屋は対応しなければならず、品書きは質素に、しかし、実際は豪勢にという特段の配慮が求められ、とても気苦労の多かった様子が当時の記録より伺えます。
そして、結果的に、国入りの際のおもてなし料理として、村人が知恵を絞り考え出したのが「元祖舟盛り」でありました。当時の品書きには、「鯛または大いわし」とだけ記載されていますが、実際は、北前船の船大工で棟梁であった山崎甚兵衛が木船の器を作り、その上に、魚を盛り付けたとされています。
その華やかな見た目が話題となり、地元に広がり、祝いの席などで提供される食文化に発展し、次第に民宿や旅館などで提供されるようになりました。なお、この舟盛りは、地元民はもちろん、北前船の寄港地三国湊に停泊する北前船の船員に伝わり、他の寄港地や近江商人を通じて、全国に広がったと語り継がれています。

第17代藩主 松平昭茂(まつだいら もちあき)

中根雪江とのエピソード

晴漁雨読の日々で楽しんだ
三国港突堤での釣り三昧
海釣り体験教室開発の秘話

中根雪江は、松平春嶽が11 歳で第16 代福井藩主になった際、その教育係となり国学を教授し、その後、江戸幕府の幕政に進出した春嶽の参謀となり、嘉永6年( 18 5 3年)にアメリカ合衆国のペリー率いる黒船艦隊が来航して通商を求めると、攘夷論者であった春嶽に開国を進言。その後、安政の大獄によって春嶽が隠居を命ぜられると同時に雪江も失脚を余儀なくされます。

続きを読む

万延元年(1860年)からは、福井県三国町宿浦の隠居所に隠居し、友人の勝海舟、伊藤五右エ門らと親交を深め、晩年は三国港突堤での釣りを楽しみとし、晴漁雨読の日々を過ごしながら、当時の政治の様子を克明に記した書物、『再夢紀事』『丁卯(ていぼう)日記』『戊辰日記 』『奉答紀事』など著作活動を行いました。
その後、雪江は、文久3年(1863年)5月27日に京都の越前藩邸で坂本龍馬と会談し上京するようにと要請されますが、機が熟していないと反対。その後、王政復古で成立した明治新政府において徴士参与、内国事務局判事として上京(出仕)。そのタイミングで福井県から離れることとなり、隠居所の管理を、友人であり庄屋であった、伊藤五右エ門に託すことになります。
当店では、こうした中根雪江の晩年釣りに明け暮れたエピソードを元に、「海釣り体験教室」を企画・開発し、観光地の楽しみ方の一つとして提案し、取り組んでおります。

中根 雪江(なかね せっこう)